メデイアでは連日“高温注意情報”を報じていますが、 「松蔭や 雲看る石に 秋の立つ(尾崎紅葉)」と詠われるように、秋の声を聞くと何となく救われたような気になる今年の猛暑です。濃い木陰を求めながら、長久寺のお地蔵さんに会いに出かけてみました。
 清洲城の裏門が移されたという総門(市指定文化財)」から入ると、右手に6体のお地蔵さんが一列に並んで、静かに見守ってくれています。何故かホッとする空間がそこにあるような気がしました。時には喧騒の世界から解き放たれ、静寂の地に身を置くのはいかがでしょうか。

 お地蔵さんは、元々ここにあったのではなく出所は不明とのことでした。左端の一番大きい地蔵が「子安地蔵」、右端が「道しるべ地蔵(左なるみ道と刻銘)」ですが、他のお地蔵さんは名前が不詳とのことです。理由は、元々別の場所にあったものを,昭和30年(1955)に長久寺に集められたのだそうです。お地蔵さんは、神から仏なった(地蔵菩薩)そうで、6地蔵(注1)には意味があり,お地蔵さんが現世と冥界の堺に立って、人々を守るという信仰によるものだそうです。長久寺の6体は偶然同数ですが、これに因んでいるのかも知れません。子安地蔵が手にする錫杖(しゃくじょう)を突くと、こうした悩みから救われると言われています。
 意外と気付きませんが、手水舎の横には水掛地蔵さんもおられます。
いつもはサーッと通り過ぎてしまう境内も、ゆっくり歩いてみると新たな出会いが待っているかもしれません。

 長久寺の歴史を紐解けば、慶長15年清須越しにより、名古屋城の鬼門鎮護、尾張徳川家の祈願所として移された寺院です。当時は10,806坪(現在は3,547坪)という広大な敷地であり、北方は下り坂になっており、遥かに遠山を臨める「尾張長久寺八景」と言われる景勝地でもあったそうです。

 門前の標識には、寺の北裏に儒学者細野要斎が明治11年まで住んでいたとありました。また境内奥には水甕(短歌雑誌)主幹であった石井直樹の歌碑があるものの、諸事情により近くでみることは出来ないとのお話でした。今でも、本堂と経堂横の扉から垣間見ることは出来ます。時代の変遷と共に、周囲も否応なく近代化へと変わらざるを得ませんが、未だに多くの歴史が刻まれ存在しています。当時の地形はそのまま残っていて、北側の坂を下ると「尼が坂公園」が、人々の憩いの場所になっています。涼を求めての散策も楽しいものですよ。
参考文献:長久寺由緒,パンフ。お地蔵さん見つけた、ひがし見聞録、当会資料他

注1:「地獄道」「飢餓道」「畜生道」「修羅道」「人道」「天道」の六つの迷いがあり、お地蔵さんはこれを救済することに通じている

   総門(一間薬医門)       標識
 仲良く六地蔵さんが・・  手水舎横にもそっと・・
   威厳を保った本堂   弘法大師さまも見守って
庚申塔(今なお信仰を深めて)   尾張名陽図会、長久寺八景