重要文化財(国・文化庁所管)
市政資料館 (昭和59年指定)
大正11年完成。名古屋控訴院、地方裁判所、区裁判所として60年間この地方の司法を司る。レンガ造りのネオバロック様式を基調とした荘重な建物です。現在、市政に関する資料の展示、集会室の貸し出し等一般公開している。
登録有形文化財(国・文化庁所管)
徳川美術館(平成9年指定)
昭和10年に建造、城壁を思わす外壁を巡らし、屋根を明様式の緑色釉薬瓦葺とし、棟上には同色の鯱を乗せた帝冠様式である。
徳川美術館南収蔵庫(平成9年指定)
昭和10年建造、切妻造り、本瓦葺で、開口部がほとんどない大壁造風の建物である。学芸員以外の入室は出来ない。
東海学園大講堂(平成10年指定)
昭和天皇御大典記念事業として計画され、昭和6年(1931)竣工した。鉄筋コンクリート造り、地下1階・地上3階。正面入り口に大きな半円アーチを取り入れパラペット(胸壁)部分に凹凸のアクセントを施し、全体に骨太であり、左右対称の原則を保っている。
金城学院高等学校 栄光館(平成10年指定)
昭和11年(1936)竣工。鉄筋コンクリート3階建て、スパニッシュ・ミッションスタイルを加味し、赤いS字型のスペイン瓦、窓枠やドアはえび茶色、壁は薄いクリーム色で調和のとれた色合いとなっています。 昭和20年の空襲で一部被害を受け3階、階段部分にポッカリと穴が空いたということです。
長母寺本堂(平成11年指定)
治承3年(1179)、山田荘の荘官であった山田次郎氏重忠が母の菩提を弔うため創建したと伝えられる寺で、弘長2年(1262)無住国師(むじゅうこくし)が来住し、寺名を長母寺と改めたという。 本堂は明治24年(1891)の濃尾地震で倒壊した後、3年後に再建された。
長母寺庫裏(平成11年指定)
棟札により文政11年(1828)の再建で、建築年代が明確な庫裏として貴重な存在である。木造平屋建てで、屋根は切妻造り桟瓦葺である。内部の梁組は重厚なもので、天井を設けず太い梁が幾重にも張り巡らされている。
長母寺山門(平成11年指定)
3間1戸の薬医門で、屋根は切妻造本瓦葺である。両側に鍵形の築地塀(ついじへい)を備えた姿は、地域の景観に欠かせないものとなっている。
建中寺徳興殿(平成12年指定)
明治29年、栄町に建設された名古屋商工会議所の建物で、本館新築にあたって、昭和9年建中寺売却された。 大法要、僧侶養成道場、各種講習会に活用されている。写真は玄関入り口、棟には文化財銘板が張られている。
旧川上貞奴邸主屋(文化のみち二葉館)(平成17年指定)
日本の女優第1号といわれる川上貞奴と、電力王の福沢桃介が大正9年(1920)頃から大正15年までを共に暮らした建物で、平成12年に建物の寄贈を受けた名古屋市が平成17年に復元移築した建物です。 それまでは東区東二葉町にあった。
旧川上貞奴邸蔵(平成17年指定)
この蔵の 元のものは土蔵であった。外観、内観ともに出来るだけオリジナルのものに似せて再現されているが、鉄筋コンクリート造りに漆喰塗り仕上げををしたレプリカである。オリジナルの部材としては、主なものとして黒い土戸、土戸の裏側にある木戸、鬼瓦である。
名古屋陶磁器会館(平成20年指定)
名古屋陶磁器貿易商工同業組合の事務所として、昭和7年(1932)竣工したもので、鉄筋コンクリート造り3階、地下1階の建物です。1階事務室の大きな半円窓、軒下の装飾帯、外観のスクラッチタイルなど豊かな表情が見られる。玄関右の青いプレートが文化財標識です。
県指定文化財
建中寺徳川家霊廟(昭和35年指定)
建中寺創建以来、尾張徳川家歴代藩主の位牌を合祀している。現存の霊廟は本堂の背後に続いて建ち木曽ヒノキによる権現造り、格天井には菊の図柄があり、その上に三つ葉葵の絵を貼り付けた部分もある。非公開であるが特別公開もある。
市指定文化財
建中寺総門(昭和60年指定)
天明5年(1785)焼失,同7年再建された。総ケヤキ造り、三間薬医門、本瓦葺。一般の薬医門より派手に造られ、規模も大きい。両脇には築地塀(ついじべい)が取り付けられている。
建中寺山門(昭和60年指定)
三間重層門、本瓦葺総ヒノキ造り。上層壁中央に釈迦三尊像、左右に十六羅漢像を並べる。軒は上層では垂木が放射状に配されている。
建中寺鐘楼(昭和60年指定)
天明の火災から2年後の天明7年(1787)再建された。入母屋造り本瓦葺きで台形状の袴腰つきである。梵鐘は再建当時鋳造のものである。重さは500貫(1923kg)ある。
建中寺 御成門(昭和60年指定)
四脚平唐門で、本瓦葺の屋根に鯱を頂き葵の紋所で飾られている。伊勢湾台風で屋根が破損した折、修復時に屋根裏の棟札書きにより正徳4年(1714)建立のものと判明した。移築時期は不明である。