2010年 近代東区ゆかりの物づくり偉人
2010年11月3日に「歩こう!文化のみち」、11月13日・14日に「東学習センターまつり」が開催されました。昨年の「近代東区ゆかりの偉人展」の中からの13人に加え、本年は新たに15人を選定、「近代東区ゆかりの物づくり偉人展」を行いました。選定された28人の方々は以下の通りです。<アイウエオ順>
(★印の方は昨年も選定された方々ですので、後に掲載の資料をご覧ください)
石塚文左衛門、魚津源二、江副孫右衞門、大倉和親、大倉孫兵衛、★大隈栄一、海部荘平・正秀、加藤忠三郎、黒川紀章、越原春子、杉浦非水、★鈴木政吉、土川元夫、★武田五一、★豊田佐吉、★豊田喜一郎、★徳川義親、★林市兵衛、★福沢桃介、松村八次郎、水野増次郎、★水谷忠厚、★盛田昭夫、★盛田善平、★森村市左衛門、★矢田績、山崎定吉、萬屋仁兵衛、
以下に本年度、新たに選出された方々をご紹介させていただきます。
二代目 石塚 文左衛門(いしづか ぶんざえもん)
弘化元年(1844)~明治43年(1910)
石塚ガラス初代社長、岩三郎の長男として生まれる。父、岩三郎は長崎でオランダ人にビードロ製造技術を学び江戸への帰途、土田村古城山にて珪石を発見した。父から伝授されたガラスの製法に新しい技術を取り入れ共栓薬壜・ランプのホヤなど新製品の製造開発をする。土田村(現可児市)から名古屋東矢場町へ工場移転するが明治24年濃尾大地震で工場は半壊、その後工場を拡大する為、西二葉町に土地を購入し社員も増員した。さらに発展しつつある。
魚津 源二(うおつ げんじ)
昭和14年(1939)~
名古屋市中川区生まれ。日本大学理工学部を卒業大手ゼネコンを経て、「魚津社寺工務店」に入社する。父、弘吉さん創業の会社で社寺仏閣「文化のみち二葉館」(旧川上貞奴邸)の復元や永平寺名古屋別院の山門、名古屋能楽堂の舞台も手がける。
江副 孫右衛門(えぞえ まごえもん)
明治18年(1885)~昭和39年(1964)
佐賀県有田出身。東京工業学校(現・東京工業大学)を卒業して日本陶器に入社。技術者江副は大倉和親と、日本初の8寸皿(ディナーセット)の完成に全力を注ぎ、完成させる。後に東洋陶器・日本碍子・日本特殊陶業の社長を歴任。特別高圧碍子・点火栓・科学磁器等の創製に尽力。特に世界最強の碍子素地を完成し、重油焼成法を実現し、日本科学会科学技術賞を受ける。
大倉 和親(おおくら かずちか)
明治8年(1875)~昭和30年(1955)
東京日本橋に大倉孫兵衛の長男として生まれる。慶應義塾を卒業し森村組に入店。29才で日本陶器の初代社長となる。洋食器のノリタケ・衛生陶器のTOTO・タイルのINAX・碍子の日本ガイシ・プラグの日本特殊陶業・高級磁器の大倉陶園を世界のトップブランドに育てあげる。日本初のディナーセット(八寸皿)の完成に悪戦苦闘し、会社創立10年の歳月を要したが、輸出は飛躍的に増大。その後も常に合理化・近代化に努め、製陶王国を築く。
大倉 孫兵衛(おおくら まごべい)
天保14年(1843)〜大正10年(1921)
江戸に生まれる。義兄、森村市左衛門の「森村組(現ノリタケ)」設立に参加、実業家としての素質と絵草子屋で育まれた美的感覚を発揮、活躍する。シカゴ万博を視察、洋風絵付けを決意し、名古屋、東京、京都にあった専属絵付け工場の集約を主唱、明治29年橦木町に大工場を造る。オーストリアの工場を見学し、洋式製陶工場建設を決意、明治37年則武町に「日本陶器合名会社」を造るなど、日本の陶磁器産業発展に多大な貢献をした。
海部 荘平・正秀(かいふ そうへい・まさひで)
壮平 弘化4年(1847)~明治28年(1895) 正秀 嘉永5年(1852)~大正10年(1921)
尾張藩砲術師範で御本丸番目付の家柄。正秀は8歳の時一族の家に養子に入る。廃藩後荘平は小牧市池ノ内に移住、よろずやを開くがその後、名古屋で養鶏に取り組んでいた正秀の勧めで養鶏業を始める。養鶏に関する知識や技術もない中で何度も失敗を繰り返すが正秀の協力のもと、ようやく品種改良に成功。(海部のうすげ)と呼ばれた鶏は関西地方から評判となり、【名古屋コーチン】として広く知られるようになる。武士の商法の成功者。
十二代 加藤 忠三郎 (かとう ちゅうざぶろう)
昭和23年(1948)~
東区に生まれる。本名 了三、初代は守山村より清須に移り、慶長16年(1611)清須越で鋳物師(いもじ)頭、水野家と共に鍋屋町に移住、藩許の鋳物師として御用を務める。5代目の折、藩お抱えの茶釜職人「御釜師(おんかまし)」となり苗字、帯刀、裃着用を許され代々、茶釜、鉄瓶等の製作にあたる。当代は昭和57年家業を継ぎ、平成3年12代を襲名「和銑釜(わくずがま)」を再現した。県優秀技能賞受賞。平成20年市技能功労者に選ばれた。
黒川 紀章(くろかわ きしょう )
昭和9年(1934)〜平成19年(2007)
名古屋市生まれ。昭和28年(1953)東海高校を卒業、弟の雅之を加え父子3人とも東海OBの建築家。在学中弁論部やクラス演劇で活躍。小柄ながらダンディで目立つ存在だった。大阪万博では、パビリオンの設計、アスペン学生デザイン会議に参加するなど国際的に名を知られるようになり海外での作品も多い。昭和61年建築界のノーベル賞、仏建築アカデミー建築大賞ゴールドメダルを授与した。 作品—名古屋美術館 豊田スタジアムなど多数。
越原 春子(こしはら はるこ)
明治18年(1885)~昭和34年(1959)
岐阜県加茂郡に生まれる。大正4年(1915)夫と共に名古屋市東区葵町に私立名古屋女学校 (現在の名古屋女子大学)を創立する。日常の衣生活を手軽で便利にとの思いで洋装の制服を考案する。また、着用に時間のかかる丸帯や昼夜帯を軽くて自分一人でも早く締められるようにと今までの帯に鋏を入れ、一本分で二本作れるようにと自作し愛用していた軽装帯は10年近い歳月を経て【名古屋帯】として中村呉服店で販売され全国に広まった。
杉浦 非水(すぎうら ひすい)
明治9年(1876)~昭和40年(1965)
近代グラフィックの父。愛媛県松山から、日本画家を志して上京。黒田清輝がパリ万博から持ち帰ったアール・ヌーボー様式のポスターを見て「図案家」になる事を決意。「三越」のデザイナーになり、ポスターや広報誌の表紙デザインを描く一方、日本初の地下鉄開通や観光案内のポスター・たばこのパッケージ・書籍の装丁を手がける。1935年現多摩美術大学の初代校長となる。文化のみち二葉館の大広間のステンドグラスも非水作。
土川 元夫(つちかわ もとお)
明治36年(1903)~昭和49年(1974)
愛知県一宮市生まれ 愛知県一中学校(現在の旭丘高校)を卒業後、昭和3年京都帝国大学法学部を卒業名古屋鉄道に入社。学友の谷口博士とともに明治村を開村した。決してイミテーションを作らない事という考えで明治時代の建物の保管をおこなった。昭和36年社長、昭和43年名古屋商工会議所会頭となる。他に名鉄百貨店を開業、名鉄バスターミナルを建設した。東区では東片端に日本棋院中部総本部会館の開設に尽力をつくされた。現在も胸像が置かれている。
松村 八次郎(まつむら はちじろう)
明治2年(1869)~昭和12年(1937)
佐賀県に生まれる。有田に最初に石炭窯を紹介したワグネルの東京職工学校に学び卒業後、南武平町の陶器商、松村九助の養子となる。明治29年(1896)新栄町に新たに窯を築き石炭窯の研究に取りかかる。渡欧中の体験に自らの創意工夫を加え、明治35年(1902)「松村式石炭窯」を完成、わが国初の硬質陶器が生まれた。その窯を特許も取らず一般に公表したので、忽ち全国に広がり、その功に対して昭和8年紫綬褒章が贈られた。
水野 増二郎(みずの ますじろう)
明治12年(1879)~昭和34年(1959)
旧尾張藩士 水野理右衛門武則の長男。14歳で起業を志し高等小学校を中退し、鈴木専弘舎に奉公する。「今は主人のために働いているが、独立した時にはこの努力は必ず自分に報いられる」と人より多く働き、明治38年家庭薬製造販売「水野甘苦堂」を創立し、白髪染め「二羽からす」「元禄」を販売大繁盛する。大正12年「朋友商会」を設立し数多くの医薬品を製造販売する企業に発展させた。昭和39年「ホーユー株式会社」に社名変更する。
山崎 定吉(やまざき さだきち)
明治27年(1894)~昭和37年(1962)
石川県大聖寺の農家に誕生。13歳で京都に行き、室蘭製鋼所、愛知時計電機を経て鍛冶屋を始め、鉄鍋修理や旋削加工の傍ら「名古屋山崎式製畳機」を造る。大正12年山崎製鉄所を造る。寝食を忘れて働くが台所は常に火の車だった。昭和3年工作機械1号機を現ブラザー工業へ納入。名機を購入し自らの手を加えてからでないと生産現場へ投入しなかった。技術の難しさは機械造りの醍醐味といい、苦境を試練と受け止め発展。現マザックの創始者。
二代目 萬屋 仁兵衛 文造 (よろずやにへい ぶんぞう)
昭和38年(1963)~
東区新出来に生まれる。幼少より地元の天王祭りで人形方を経験し、平成元年から故八代目玉屋庄兵衛(初代萬屋仁兵衛)に師事する。技術は師匠の手元を見て学び、自宅で木切れを削って木偶師(でぐし)の腕を磨いた。平成12年二代目を襲名。出来町の山車「鹿子神社の唐子人形」の復元や地下鉄伏見駅構内の「口上人形」を新作。全国各地の人形の修復・復元を数多く手掛ける。前途有望な逸材。2010年8月上海万博会場で、からくり人形を披露した。
2009年 近代東区ゆかりの偉人
2009年11月7、8日東生涯学習センターにおいて「生涯学習まつり」が開催されました。
東区文化のみちガイドボランティアの会で行った「近代東区ゆかりの偉人展」は展示しました31人のうちから皆様方に人気投票をして頂くもので大変好評を得ました。上位から順次ご紹介させていただきます。
1位 豊田 佐吉 (とよだ さきち)
慶応3年(1867)~昭和5年(1930)
(株)豊田自動織機製作所(大正15年11月)の創業者。静岡県湖西市の農家生まれで大工になった。23歳の明治23年(1890)に東京での内国勧業博覧会での外国製織機を参考に「豊田式木製人力織機」を発明。英国の会社に譲渡した特許等数多の発明をしている。この間、明治35年(1902)トヨタグループの原点といえる「豊田商会」を東区に設立し、住まいも白壁1丁目に構えた。因みにトヨタ自動車工業(株)は昭和12年(1937)に設立されている。
2位 川上 貞奴 (かわかみ さだやっこ)
明治4年(1871)~昭和21年(1946)
16歳で芸者「奴」と名乗れるほどになり政界人の贔屓を得ていたが、23歳で川上音二郎と結婚した。彼とアメリカ巡業中「川上貞奴」の名で舞台に立ち、明治37年(1900)のパリ万博で日本の女優第一号として一躍有名になった。音二郎の死後、本名の「川上 貞」に戻り、福沢桃介のパートナーとして東区東二葉町に建てた「二葉御殿」の主人として接客に優れた。実業家として「川上絹布」や「児童楽劇園」なども経営した。
3位 小林 誠 (こばやし まこと)
昭和19年(1944)~
幼くして父を亡くたため、母方の伯父にあたる海部家に身を寄せ、従兄の海部俊樹らとともに東区 白壁4丁目で暮らし、山吹小、冨士中、明和高校、名古屋大学理学部へ、大学院修士、博士課程へと進む。京大助手になっていた益川氏と昭和47年に同じく助手になった小林氏が近場で研究出来る様になり、翌48年二人の共同論文が発表されて2008年のノーベル賞として輝いた。
4位 福沢 桃介 (ふくざわ ももすけ)
明治元年(1868)~昭和13年(1938)
福沢諭吉の娘婿となり、東区東二葉町に「二葉御殿」(現二葉館)を構えて住み、木曽川水系に日本初のダム式発電所(大井発電所)をはじめとして7ヶ所の水力発電を造り「電力王」と言われた。その後、名古屋電灯を経て大同電力を設立した。発電所の建設以外にもこの電力を利用して送電線の会社や、大同製鋼など多方面で活躍した。独立独歩で自分の道を貫き、去るときは潔く、大胆不敵な「鬼才」と呼ばれた。
5位 盛田 昭夫 (もりた あきお)
大正10年(1921)~平成11年(1999)
白壁町五丁目の家に生まれ、旧制八高から大阪帝国大学を卒業。昭和21年井深大と共に東京通信工業を設立し取締役、高周波トランジスタラジオを開発し、翌年ソニーのブランドで発売。海外販路の開発にあたる。アメリカ・スイス・香港・イギリス・カナダ西ドイツなどに現地法人の販売会社を設立。ソニーに社名改称後に社長、のち会長となる。86年経済連副会長。スペイン政府、イギリス王室、ベルギー王室、フランス大統領などから勲章を授与された。
6位 豊田 喜一郎 (とよだ きいちろう)
明治27年(1894)~昭和27年(1952)
豊田自動織機の豊田佐吉の長男。東京帝国大学工学部を大正9年に卒業、豊田紡織に入社。昭和4年欧米に出張、同年英国プラット社と特許売却の調印。その特許料で自動車製造に力を注ぐよう佐吉に指示される。ガソリンエンジン完成など努力を重ね、昭和11年国産トヨダ大衆車AA型を完成。昭和12年トヨタ自動車工業株式会社を設立し副社長に。昭和13年挙母(ころも)工場を竣工。「世界のトヨタ」の基礎を造った。白壁4丁目に居住した。現社長章男氏は、喜一郎の孫にあたる。
7位 徳川 義親 (とくがわ よしちか)
明治19年(1886)~昭和51年(1976)
元越前藩主松平春嶽の五男として生まれる。明治41年尾張徳川家の養子となって義親と改名、同家19代目を襲名。大正10年蕁麻疹治療で転地療養を勧められマレー・ジャワへ。そこで国王の厚遇を受け、虎狩を行ったことから「虎狩の殿様」の通称を受けた。昭和6年名古屋市東区の別荘(約14,000坪)の大半を名古屋市に寄付、又財団法人「徳川黎明会」を組織、に徳川美術館を開設した。
8位 尾崎 久弥 (おざき きゅうや)
明治23年(1890)~昭和47年(1972)
名古屋市生まれ。大正2年(1913)から教育者として多数の学校で教鞭をとる。中学時代から新短歌運動に熱中し、同志たちと短歌雑誌を創刊。大正5年(1916)から大正8年(1919)には短歌から浮世絵、江戸文学へと移る。大正14年坪内逍遥に認められ「江戸軟派雑考」を出版。昭和34年(1959)~昭和47年(1972)にかけて刊行された「名古屋叢書」47巻の編集に携わる。その研究のため多数の資料を収集し絵画、書物など1万点にも及ぶ旧蔵書は徳川園の蓬左文庫に寄贈された。
8位 盛田 善平 (もりた ぜんぺい)
文久3年(1863)~昭和12年(1937)
敷島パンの創始者。明治32年個人会社でメルケン粉の生産を始め、屋号を「敷島製粉工場」と命名した。大正3年第一次世界大戦が勃発し、日本は中国の青島(チンタオ)を占領した。東区出来町に捕虜収容所(現旭丘高校)が造られ、ドイツ兵捕虜519名が収容された。たまたま善平は”収容所のパンは捕虜自身が焼くので大変美味しい”という話を聞きパンを作ることを思い立ち、捕虜のパン職人を技師長として採用し大正9年敷島製パン(株)を設立した。
10位 勝沼 精蔵 (かつぬま せいぞう)
明治19年(1886)~昭和38年(1963)
明治44年(1911)東京帝国大学卒業。大正8年(1919)愛知県立医学専門学校(現名古屋大学医学部)内科教授となり七小町(泉二丁目)に居住。昭和元年(1926)「オキシターゼの組織的研究」で学士院賞を受賞。昭和7年(1932)から14年間大学付属病院長。西園寺公望の侍医としても知られ、昭和24年(1949)名古屋大学総長に就任。昭和29年(1954)文化勲章を受賞。
10位 鈴木 禎次 (すずき ていじ)
明治3年(1870)~昭和16年(1941)
東京帝国大学工科大学建築学科卒業。明治36年(1903)~明治38年(1905)まで欧州留学。帰国後、名古屋高等工業高校建築科教授となる。教授辞任後、鈴木建築事務所を開設。 名古屋における建築事務所の草分け的な存在となる。鶴舞公園にある噴水塔、松坂屋本店、旧三菱東京UFJ銀行貨幣資料館など80にも及ぶ建築作品のうち44棟が名古屋にある。戦前の名古屋の都市景観をつくり上げた偉大な建築家である。帰京するまで東片端に住んでいた。
10位 岸田 国士 (きしだ くにお)
明治23年(1890)~昭和29年(1954)
東京大学仏文学科卒業。大正8年(1919)~大正12年(1923)の4年間渡仏。帰国後、演劇・小説・翻訳の分野で活躍。昭和12年(1937)に久保田万太郎、岩田豊雄と共に文学座創設。新劇発展のために尽力する。昭和28年(1953)芸術員会員となり岸田演劇賞が創設され、没後も岸田国士戯曲賞となって今日に至る。戯曲に「紙風船」、小説に「暖流」、翻訳に「にんじん」などがある。父の転勤により現山吹小学校に在学。尚、長女岸田衿子(詩人)二女岸田今日子(女優)がいる。
以上が10位までに投票された12人です。8位が2名、10位が3名同じ得票数でした。
順次展示しました偉人の中から得票数の多い順に紹介します。
清沢 満之 (きよさわ まんし)
文久3年(1863)~明治36年(1903)
尾張藩士の子として生まれ、筒井小学校の第1回卒業生で東京帝国大学を卒業しています。明治21年(1888)京都府尋常中学校校長に赴任し、最低限の制欲自戒の生活にも入った。明治25年(1892)には「宗教哲学骸骨」を刊行し英訳もされている。東本願寺における近代的な教育制度、組織の確立を期して改革を協議推進し、当局者と対立し宗門から除名処分を受けた。処分が解けてから、真宗大学の初代学長となっている。
西川 秋次 (にしかわ あきじ)
明治14年(1881)~昭和38年(1963)
明治37年(1904)愛知県立第一師範学校から東京高等工業高校紡織科を経て豊田紡織株式会社に入社し、豊田佐吉の片腕となって自動織機の発明と販路拡大のために貢献する。佐吉の長男(喜一郎)の夢であった自動車研究も応援し、今日のトヨタグループの基礎を築いた一人でもある。晩年は、経済的理由で勉強を断念しなければならない人々のために「財団法人 西秋奨学会」を設立。結婚後主税町に住み、現在も子孫が住んでいる。
岡谷 惣助 (おかや そうすけ)
明治20年(1887)~昭和40年(1965)
岡谷家10代(幼名は清治郎)として家業の金物商を継ぎ、明治42年(2009)岡谷合資会社を設立。洋鉄を輸入するなど近代化につとめ、昭和18年(1943)岡谷鋼機と改称した。名古屋商工会議所第10代会頭(昭和8年1月~昭和11年12月)。昭和20年(1945)戦災に遭い東区白壁4丁目に居を移した。名古屋市立商業を卒業している。
鈴木 政吉 (すずき せいきち)
安政6年(1859)~昭和19年(1944)
尾張徳川家の世臣、黒門町に住み、幼少の頃より父親と三味線製造に従事したが、18歳のとき和製バイオリン製造志し、明治23年(1890)試作第1号をつくり、東京音楽学校外国人教師の賛辞を得て本格的に製造を開始。工場はは東区東門前町に新設し、のち松山町に移転。大正6年(1919)発明の功績により緑綬褒章を受けた。その製品はドイツ品を凌ぐに至ったが、第一次世界大戦勃発でドイツ製品の供給が途絶し、国内ばかりか全世界に販路を開いてバイオリン王の名を冠せられるに至った。
都留 重人 (つる しげと)
明治45年(1912)~平成18年
東京都生まれ、名古屋で育つ。大正8年(1919)東区にある柳城幼稚園を卒園。葵小学校に入学。昭和10年(1935)ハーバード大学卒業。大学院で博士号取得。昭和15年(1940)ハーバード大学の講師となる。昭和17年(1942)帰国。昭和47年(1972)~昭和50年(1975)まで一橋大学の学長、同年名誉教授。退官後、朝日新聞論説顧問、明治学院大学教授などを歴任。日本人初の国際経済学連合会長。現代資本主義の分析で国際的に知られた。
松永 安左ヱ門 (まつなが やすざえもん)
明治8年(1875)~昭和46年(1971)
長崎県壱岐郡石田村に生まれる。明治22年(1889)東京に出て慶応義塾へ入学。福沢桃介と経済学論などで議論した。後に桃介と共同で神戸や大阪などで材木商、石炭業を営んだ。大正11年(1922)九州電燈鉄道と関西電気が合併し東邦電力になると副社長になり、後社長になる。電力国家管理開始に伴う東邦電力の解散を期に引退。以後は所沢の柳瀬荘で茶道三昧の日々を過ごした。
森村 市左衛門(もりむら いちざえもん)
天保9年(1839)~大正8年(1919)
黒船来訪後、外国商人が日本との貿易によって不当な利益を得ていることを憂い、日本が将来豊かな国となるために日本人自身が海外ビジネスを展開するほかないと「森村組」の基礎を築いた。東京銀座から橦木町へ出て陶器の絵付け工場を始め、明治37年(1904)日本陶器合名会社を設立して則武町へ移り、日本最初の白色硬質磁器の生産に成功した。森村組:ノリタケカンパニー、TOTO、日本ガイシ、日特陶等
井元 為三郎 (いもと ためさぶろう)
明治7年(1874)~昭和20年(1945)
明治30年(1897)北区で陶磁器輸出業「井元商店」を創業。明治36年(1903)東区橦木町に移転。世界各地に支店を置いての直接輸出をはじめ、名古屋地方の陶磁器輸出業界の先駆者として業界をリード。昭和9年(1934)産業功労賞受賞。
大隈 栄一 (おおくま えいいち)
明治3年(1870)~昭和25年(1950)
明治31年(1898)義父が作りあげた製麺機の名古屋での販路を拡大するため石町(泉二丁目)に大隈麺機商会を設立。自らも特許の手延式製麺機で業績を伸ばし、富士塚町に工場を移して大々的に販路を開いた。明治37年(1904)日露戦争が始まると兵器製造の為の工作機械の需要が高まったので、大正7年(1918)大隈鉄工所を設立し、工作機械の製造を開始した。
奥田 正香 (おくだ まさか)
弘化4年(1847)~大正10年(1921)
名古屋商工会議所代六代会頭(明治26年~大正2年)“名古屋の渋沢栄一”と呼ばれ、また“奥田の息のかからぬ会社は、この地では成り立たない”と噂されるほどであった。旧尾張藩士で明治になって役人生活を送ったが味噌たまりの製造業を始め大成功し、日本車輌製造、名古屋電力など多くの会社に関係した。然し、疑惑事件が発生し盟友などが獄中の人となり、職を辞し東区葵町の本宅を去り、仏道生活に入った。
日比野 寛 (ひびの ゆたか)
慶応2年(1866)~昭和25年(1950)
33歳のとき西二葉町(白壁2丁目)にあった母校の愛知県立第一中学校(現旭丘高校)に赴任。明治32年(1899)~大正6年(1916)の間17年間務める。「正義ヲ重ンセヨ。運動ヲ愛セヨ。徹底ヲ期セヨ」を校訓にした。又心身保健訓として「病めるものは医者に往け、弱い者は歩け、健康な者は走れ、強壮なものは強壮せよ」と日比野式走法を考案。マラソン王と言われた。
矢田 績(やだ せき)
万延元年(1860)~昭和15年(1940)
和歌山県に生まれ、慶応義塾で学び、三井銀行に入行。10年間名古屋支店長に就任。名古屋経済界への助言・人材の発掘・中央への紹介・文化の向上に尽力。再度来名の後、東区橦木町に永住。大正14年(1925)私財を投じ名古屋公衆図書館を武平町に開館。昭和14年(1939)名古屋市に寄贈。後に栄図書館と改称。昭和40年(1965)西区へ移転し、西図書館となった。矢田績翁の胸像は、同図書館2階の庭園内にある。
吉田 禄在(よしだ ろくざい)
天保9年(1838)~大正5年(1916)
板屋町(葵2丁目)に生誕した尾張藩士。明治政府に出士後、明治11年(1878)初代名古屋区長に任ぜられる。東海道線の名古屋誘致、名古屋停車場の開設、広小路の延伸、精進川の開削計画など名古屋が商工都市 として発展する基礎作りに貢献。明治21年(1888)退官。退官後は衆議員議員となる。
以上までが人気投票された25人です。残念ながら以下の6人は投票がありませんでした。「文化のみちガイドボランティアの会」ではこれらの偉人をより多くの皆様に知って頂くための発信に務めたいと思っています。
近藤 友右衛門 (こんどう ともえもん)
明治7年(1874)~昭和13年(1938)
初代は名古屋伝馬町で呉服、雑貨店「信友」を創設、尾張藩のご用達となった。 明治37年30歳のとき、二代目友右衛門を襲名し、綿糸商「信友商店」の経営を引き継ぐ。明治末期に東区白壁町に敷地面積千坪にも及ぶ別荘「涛声閣」を建築。戦後は売却され料亭「櫻明荘」となったが現在はマンションとなっている。又軽井沢別荘地の開発にも努めた。
下出 民義 (しもいで たみよし)
文久元年(1861)~昭和27年 (1952)
大阪府 泉南郡岸和田(現岸和田市)生まれ。堺で教員をした後、実業界に入る。明治22年(1889)名古屋で愛知石炭商会を創立。その後福沢桃介の会社と提携が成立し「名古屋電燈」や「電気製鋼所」「名古屋紡織」をはじめとする多数の企業の発展に絶大な貢献を果たした。晩年は、私財を社会に還元することを志し、教職を天職として大正12年(1923)東区赤荻(現東区葵三丁目)に東邦商業学校(現東邦学園)を設立した。
武田 五一 (たけだ ごいち )
明治5年(1872)~昭和13年(1938)
大正・昭和期の建築家。広島県福山生まれ。東京帝大卒。東京帝大工科大学教授、京都高等工芸教授を経て名古屋高等工業校長となり、上竪杉町に居住し、「春田鉄次郎邸」を初め東区内のいくつかの建物を設計した。作品に「京都商品陳列館」「京都帝大本館」「東方文化学院京都研究所(現京大人文科学研究所)」などがある。
田中 不二麿 (たなか ふじまろ)
弘化2年(1845)~明治42年(1909)
尾張藩士田中義兵衛の長男として、現東区代官町、中京銀行代官町支店の地に誕生した。今も生誕記念碑がある。勤皇の心厚く、明治になって文部大丞(じょう)となり、岩倉大使一行と渡欧した。その後教育令を建白し文教政策に大きく貢献。後に司法卿・イタリア大使・フランス大使・枢密顧問官・司法大臣となり、子爵を授けられた。尾張出身の顕官の筆頭である。
林 市兵衛(はやし いちべい)
安政6年(1859)~大正15年(1926)
二代目林市兵衛は名古屋で時計製造業の鼻祖と称えられる。事業肌の二代目は明治27年ボンボン時計の輸出を計画したが、日清戦争が勃発して中断。同28年9月終戦と共に輸出された。これが名古屋時計輸出の嚆矢である。その後、曲折があり社名も時盛社・林時計製造所・林時計(株)と改称され、工場も杉の町・松山町、大正14年には東区葵町に移転した。
水谷 忠厚(みずたに ただあつ)
天保12年(1841)~明治25年(1892)
旧尾張藩士で一説によれば東区法華寺町(現小川町)で生まれた。明治4年(1871)廃藩置県により失職。製粉製麺業を始めたが、武士の商法となり失敗した。荷車を引き赤津、瀬戸方面から陶磁器、薪、炭を運んで生計を立てていた。自らも運搬に困り今坂峠(赤津→瀬戸)の開削にかかり、見物人に容赦なく土木工事の勤労奉仕を願った。ボランティア活動の始祖とも言える。瀬戸街道の開削を行い、明治17年10月には東区矢田町の矢田川に36mの木橋を完成させた。他に永平寺街道、中馬街道、吉崎街道などの開削も行っている。
ここまでが昨年、生涯学習まつりで展示した「近代東区ゆかりの偉人展」にとり上げた31人です。
東区ゆかりの偉人はまだまだ沢山ありますが、今回は会員により選ばれた31人を「偉人展」に展示しました。