「夏の日や 薄苔つける 木々の枝(芥川龍之介)」
八月の幕が開き、夏まっ盛りとなりました。コロナ禍で中止になっていた夏の風物詩である花火大会の様子をメディアが華やかに伝えています。何かと先の見通しがつけづらい状況ですが、ほんの少し明るい兆しを感じられるでしょうか。
前回に引き続き、今回は残された町名のある白壁4丁目、主税町、橦木町を散策してみました(白壁筋・主税町筋・橦木筋(当時は「筋」)。ここは町並み保存地区として大正ロマンの残る町筋(東西の筋)ですが、何カ所かの貴重な建築が無くなりそうな気配です。記憶と記録に残しておけると良いなと思い散策してみたいと思います。
白壁町の謂われは前回お知らせしましたが、江戸期以来の町名です。ここは江戸時代には中級武士の屋敷町の跡で明治以降、当時の起業家たちが始めた先端産業や文教の地となりました。町並みを構成する歴史的建造物として指定され「町並み保存地区」として貴重な遺産として残されています。
白壁筋と鳥屋筋の交差角(料亭か茂免前)にある「カノッサ修道女会 養成の家」は、ある日突然解体工事が始まりびっくりし、近隣の方に伺ってみましたが、誰も詳細は分からないとのことでした。ここは平成9年建築、イタリアのマダレナ・カノッサにより設立された修道女会で、祈りと宣教の場として生活されていました。世界34カ国、日本には5カ所あるそうです。昭和45年頃までは久野家の武家屋敷門と塀が残されていました。その名残と思われる苔むした庭石や切支丹灯籠が残された庭園がありました。この燈籠や桜の木は残されると聞きました。歴史を見続けてきた証しとしてそこに存在し、今後もずっと残り、時の流れを見守っていって欲しいと思います。
もう一カ所は、橦木筋と鳥屋筋(山吹公園東北角)にあった、大正時代の長屋数軒と屋根神様(祠跡)で、気づいた時は撤去中でした。今はもう駐車場になっています。
橦木町は江戸期以来の町名で、東西の町筋が行き当たって(上堅杉町)、丁字形となり鐘を打つ撞木と似ていることから付いた町名です。現在は撞木の形も無く町名のみが残っています。
鳥屋筋は長久寺町から長塀、白壁、主税、橦木町までの南北の筋を言います。藩政時代は両側とも武家屋敷でしたが大塩、石原両家の喧嘩が原因で断絶、その後町屋となり町人が小鳥を売っていたことからこの名がつきました。町名を聞くだけで、当時の生活や環境が想像でき、その情景が偲ばれます。IT時代の到来に最先端の技術と共に古き良き時代を継承していけると良いなと思います。
当会常駐の旧豊田佐助邸周辺を含め、江戸時代の面影を残しているのは、電柱は地下埋葬され街灯が昔の面影を伝えていることでしょうか。じっくり・・まったり文化のみち(町並み保存地区)をガイドと一緒に歩いてみませんか。お申込みはHPからどうぞ
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