名古屋市東区、橦木町筋と鳥屋町筋(注1)が交差する角に山吹谷公園があります。この公園の南西の片隅に「名古屋市立第三高等女学校ここにありき」などと刻まれた、3個の石碑が木立に抱かれてひっそりと建っています。碑陰大正12年4月開校、昭和20年1月23日学徒42名爆死、と記されていました。当時大曽根の三菱航空機に勤労動員されていた女生徒42名が米軍の空襲に遭い爆死したそうです。戦後67年を経て、薄れがちな戦争に対する意識、命の大切さを再確認するためにも、末永く残したいモニュメントです。静かに目を閉じると、葉ずれと秋の虫の音が、優しく碑を守ってくれているようでした。
なお、名古屋市立第三高等女学校は、昭和23年の第一次高等学校編成により愛知県立第一高等学校に統合され、愛知県立旭丘高等学校として発足しました。(東区の歴史、ひがし見聞録、旭丘高校の沿革参照)
注1:白壁4丁目、主税町筋、橦木町2丁目を南北に通る道
上段左は校碑
上段右は公園に静かに佇む碑 下段左は学徒の死を悼み刻まれている |
コメント
コメント一覧 (4件)
一度、現地を訪れたことがあります。昭和18年度の大杉小学校の赤組の卒業生です。白組は、同じく男性との首でしたが、青組、黄組は女子生徒の組でした。女子生徒の組から市三高女にに進学していた二名の同級生が三菱航空機で悲惨な爆死に遭われたことを今から一〇年ほど前に、偶然にもやはり同学年だった女性から聞きました。その当時私も学徒動員で鈴鹿海軍工廠の下請工場であった吉田鉄工で機関砲の弾丸を作っていました。一月一六日の空襲の時は、私たちは矢田川の堤防の上に逃げていて、三菱が爆撃されるのをいまのテレビ画像でも見るように、遠望していたのでした。戦時下のことで、被害は報道されず、知らないままに戦後を過ごしたのでした。戦後七五年、改めて戦争反対、憲法改悪反対の決意を固めることで、同級生のお二人と共に、同時に亡くなられた五一名の皆さんの御冥福を心からお祈り致します。
実体験ならではの感情あふれるコメントをありがとうございます。私たち
ガイドボランティアにとってどうしても披露し、後世に伝えていかなければならない
事象だと思います。
草木の一つずつにも歴史があることか確認いたしました。感謝申し上げます。
祖母がこの空襲で友人を亡くしました。
まさに生徒、校庭での集合時に空襲。
たまたま校舎内にいたため難を逃れたと。
同級生はほとんどいなくなったと。
あまり戦争体験を話したがらない祖父母でした。
宿題などで、戦争学習があると、渋々聴かせてくれました。
実体験の貴重なお話しをありがとうございました。
言葉では表現できない環境があっての世界で、恐らく
何分の一しか理解出来ないと思います・・。
でも、後世に伝承していかないと全てが途絶えてしまいます。
折角の機会ですので、是非活かしていきたいと思います。