東区矢田町3丁目にある木ヶ崎公園を通り抜け、矢田川沿いの水防倉庫脇に「やたのハはし」と書かれた標柱二つを見つけました。これは、水野忠厚が明治17年10月に東区矢田町の矢田川に36メートルの木橋を完成させた時の親柱だそうです。(忠厚が篤志家から資金を集め、自ら勤労奉仕を率先した)
彼は旧藩士であったが廃藩後製麺業に失敗し、瀬戸方面から陶磁器・薪などを運び生計を立てていた。運搬に使う今坂(こんざか)峠(赤津—瀬戸)の険しい坂が人々を悩ませていたので、明治12年、勤労奉仕で開削工事を始め、この地方の交通のために尽力した。天爵大臣(注1)と評される水谷忠厚その人である。この他にも先の矢田橋を始め、瀬戸街道・中馬街道・永平寺街道などの開削も行っており、ボランティア活動の始祖、先駆者とも言える人であるが、名古屋ではあまり知られていないのが残念です。『些かの私心もなく、あるのはただ一筋の奉仕の念願と赤心のみだった』の言い伝えが、彼の存在を一層大きくしていると思います。
(文化財叢書第84号、中日新聞、当会資料参照)
【注1】天爵:その人に自然に備わった徳の高さ(広辞苑)
矢田川を背に標柱が立っている(右は水防倉庫) | 「やたのハはし」・「明治17年10月」とある |
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