東寺町
大島君川の寺標
以前、含笑寺の寺標(寄席文字)を調べてから、寺標に興味を覚え東寺町を探索してみました。今まで何気なく通り過ごしていた寺標にも、それぞれに歴史・繋がりがあることが分かりました。法華寺町(注1)にある「大法寺」の寺標に近寄ってみると、「君川大島徳書(注2)」の文字がありました。周辺の寺標も調べてみると大島君川の文字がありました。いずれも清須越し、日蓮宗のお寺で京都本国寺の末寺です。特に「大法寺」は君川の菩提寺でもあるそうです。
君川は書家で恒川宕谷に師事し、愛知県職員を退職後、書道塾を開き多くの門人を養成して書壇の重鎮となった人です。この他にも碑銘や社標・・など多くの墨跡を残されているそうです。皆様も散策の折り、時には視点を変えてご覧になるのも一興ではないでしょうか。意外な発見があるかも知れませんよ。(東区の歴史、当会資料参照)
当会では、東寺町など東区内の依頼ガイドを行っております。詳細につきましては「ガイドについて」からお進み下さい。
![]() |
![]() |
寺標、東面に君川大島徳書とある | 東寺町ガイドの様子(へちま薬師) |
注1:慶長15年の清須越しの際、城の防衛上もあり、東区東桜周辺とりわけ小川町筋には、
日蓮宗18ヶ寺をおき、法華寺町とし飯田街道の(駿河街道)の守りとした
注2:寺標には「君川大島」と書かれているものが多く見られる
含笑寺と含笑花
清須越しでも有名な東寺町(注1)に、寄席文字で書かれた珍しい寺標があります。その寺は「鷲嶺山 含笑寺(曹洞宗)」(東区東桜二丁目)で、織田信秀公が生母(信長の祖母)の菩提を弔うために清須土田村に建立し、戒名「含笑院殿茂獄涼繁大禅定尼」より寺号となったそうです。含笑花は別名バナナツリーともいわれ、花の色も香もバナナに似ており、毎年5月〜6月になるとほのかに甘い香りが漂います。故事にある「拈華(拈芦)微笑(ねんげみしょう)」(注2)という言葉から、また陳舜臣の著書「含笑花の木」に、甘く柔らかい感じの香に自分の母親を彷彿とさせるという一文があり、そのようなことが相俟ってこの名前に繋がっているのではないか・・とご住職様に伺いました。信秀公の、母を愛おしく想う気持ちがよく表れていると思います。
寺標は、寺名にふさわしい文化行事として昭和42年から続く「含笑長屋落語を聞く会」の20周年(昭和62年)を記念として建てられたものだそうです。本堂横に含笑花(がんしょうか・カラタネオガタマ)が植樹されていますが、これは檀家様からいただいた木だそうです。
風薫る季節、時代の流れなどにも思いを巡らせ、時には心静かに向かい合ってみてはいかがでしょうか。(ご住職様のお話、ひがし区史、清須越し、当会資料参照)
![]() |
![]() |
寺標 | 清須越しの山門が現在も残る |
![]() |
![]() |
本堂 | 含笑院殿の墓 |
![]() |
![]() |
甘い香りが周囲に漂って | 半開き状態で開花(含み笑いに見える?) |
注1:現在の町名では、東区東桜と中区新栄を中心とする飯田街道に沿った地域。尾張名古屋における東の防衛拠点の役割を担った。法華寺町筋(日蓮宗集積)、禅寺町筋(曹洞宗集積)その周辺に浄土宗や他宗を配置。(清須越しで48の寺院が移ったが、現在は37寺)
注2:以心伝心、不立文字の意。「拈華」は花をひねること。「花を捻りて微笑する」と訓読みする。ここから寺名に「含笑」の字を使ったのではないでしょうかとご住職様のお話です。
東寺町一帯 その1 石碑
前回で紹介しました東桜会館のある一帯は「東寺町(ひがしてらまち)」と呼ばれ、1610年から始まった名古屋城築城により清須にあった寺をそっくり移した清須越によってつくられました。旧松山町には浄土宗、曹洞宗の寺が集められ、旧法華寺町(ほっけてらまち)には日蓮宗の寺が集められました。広い寺域は戦いのときの見張り、陣地として役立ち城の防衛上の役目も果たしたのです。昭和20年の空襲により、寺院の焼失や戦後の都市計画による寺院の移転、道路拡張などで寺の姿は大きく変わりました。
東桜会館南にあるこの寺町碑は日蓮宗、法輪寺創建400年、立教750年記念として平成13年に建立されました。
![]() |
![]() |
寺町碑がある旧法華寺町 | この石碑には「旧法華寺町には日蓮宗の寺 18ケ寺が集められました」と書かれています |
★「東区文化のみちガイドボランティアの会」ではこの東寺町一帯を依頼ガイドにてご案内しています。(時間は2時間くらい)このホームページ、トップの「ガイドについて」からお入りいただき申し込みフォームからお申込みをしていただくと、ホームページからもご予約いただけます。この機会に、今なお往時を物語る東寺町周辺を歩いてみませんか。