今回は、江戸、明治からの面影を残しつつ「現在」と共存している黒門町にある「清沢満之」の標札(再設置、注1)とその周辺を、麗らかな日和に誘われて散策してみました。
 黒門町は江戸期までは下級武士の武家屋敷跡で、満之の生家(黒門町2)も昔の面影を残すまま、路地の奥にありました(現在は空き地)。

 この標札、幾多の星霜を重ね、現在は駐車場の一角に「黒門町みんなの掲示板」と並んで設置され“今と昔”を受け継いでいるようです。喧騒の世界から一歩路地に入ると時間はゆったり流れ、長閑な日常がそこにはあります。ふっと横道にそれると行き止まりだったり、思いがけない出会いがあったりします。時にはゆったり、まったり歩いてみませんか。

 清沢満之は、明治の仏教界にあって「信仰の仏教」を樹立し「今親鸞」と呼ばれた宗教家です。覚音寺(新出来1)に絶筆「我が信念」の碑があります。
 彼は文久3年黒門町に生まれ、第五仮義校(現筒井小学校)を卒業しました。その後、覚音寺(新出来1)で修業得度し、東本願寺の育英教校で学び現在の東大哲学科と大学院を卒業。碧南市の西方寺の娘、清沢やす子と結婚し清沢性となった。宗門改革に努めるが困難も多く肺結核も患い41歳で没しました。精神主義を説き明治の大哲学者の1人に数えられている人物です。

 黒門町の由来は、名古屋城二の丸の黒門護衛にあたった御持筒(弓)組み同心の屋敷で、この同心を黒門組または御黒門といったという説があります(諸説あり)。当時の生活を思い描きながら歩いてみると、門や塀、屋敷の佇まいに当時を偲ばせるものがいくつもありました。反面、近代建築とも融合している不思議な場所でもあります。

 銭湯の煙突に導かれ、いつの間にか百人町(藩政時代百人組同心屋敷のあったところから町名ができた)に辿り着きました。
 そして、この側に東区の名木「散りツバキ」があることを思いだし、立ち寄ってみました。丁度みごろで綺麗に咲いていました。このツバキは蓮華咲きで花びらが一枚ずつハラハラと散ることから散りツバキというそうです。このツバキの品種名は「沖の浪」、八重咲き絞りの代表花で江戸ツバキの一種だそうです。時には路地裏の春を楽しみながらの散策はいかがでしょうか。(ひがし見聞録、清沢満之物語、東区の歴史、東区の名木参照)

注1:以前は、現在駐車場に変わっている杉本家の屋敷角に設置されていた。

    清沢満之の標札  路地の奥が生誕地(空き地)
  覚音寺境内の碑(絶筆)  覚音寺本堂屋根上には?!
   筒井小南門の銘板  昔の道路がそのままに・・
散りツバキ(2色に咲き分け)   八重咲き絞りが見事